雑記

白いワニに囲まれています。

フィナーレ

高井息吹さんの歌は、なんであんなに力強く響くんだろう。

 

 なにを書こうとしたのか忘れた。

 仕事はすごく忙しい。ネットワーク関係のエラーがあって、今まで進めていた仕事にも影響が出そう、ということらしい。伝聞口調なのは、自分は当時担当ではなかったから。でもそもそも仕事って誰がやっても同じように出来なければダメなのではないか、とずっと思っている。独自の何か、とか属人的な何か、とかこれは業務全体としてはかなりマイナスなんだろうな。かといって業務のフロー等を作成する余裕も実はあんまり無かったりする。忙しいとどんどんとその業務に詳しくなっていくが、自分ばっかり詳しくなってもしょうがないだろうな。

 この、「属人的な要素をなんとかしたい」「他の人が担当についてもスムーズに仕事できるようにしておきたい」っていうのはかなり前から思ってはいる事なんだけれど。実際世の中に自分にしかできない事、なんていうものはほとんど存在しないからなー、なんてずっと思いながら生きてる。一種の諦観の境地なのかもしれない。

 

 これは何も仕事に限った事ではなく、自分の携わるものすべてに対してこう思ってしまう。この考え方も社会に出てから身についた訳ではなくて、なんかずっとそう思ってる。幼少期の何かなのか、生まれ持った性質なのか、それとも見聞きした経験に起因するのか、わからないが。

 手の届かない範囲の事柄に心を痛めることは、当然にある。人の生活を豊かにしたり破壊したりするエネルギーの話。エントロピー増大の話を職場でしたら後輩に理系っぽい!と笑われてしまった。物事は絶えず乱雑な方向に進んでいく。混沌とした原子の集合体。今世界で起きている(と報道されている)色々な事も無秩序さ、乱雑さみたいな、そういう見え方をしてしまうな。それもネット上(この言い方はあまり好みじゃないけど)だと冷笑系って言って批判のネタにされたりしている気がするね。世の中にある怒りの矛先はすべて自分に向けられているように感じるし、憎悪や憎しみもそう。これも無秩序。

 だけど、それを自分一個人が秩序立てていくことは勿論不可能だと思う。手の長さも声の大きさも限りがあるし。

 自分が取り組んでいる物事、関わっている人、沢山大切なものはある。し、大事にしているものもあるつもりだった。実際のところ、色んな人と関わり、例えば演奏したり、仕事したり、綺麗なものをみたり聴いたり、時間や感覚の共有をしてきた。部活動やクラス、部署、業務班、友人、恋人など。

 しかしそこに自分だから必要とされている、みたいなものは無かったな。引継ぎの資料を作成すれば良い世界。価値判断の基準を外側に置いている。こう言う事だったのかーと今書いてみて思ってる。我ながら腑に落ちた。誰に対しても「そう」してきたツケが回ってきているんだろう。

 何かから必死に逃げるように迎合するように生きてきて、四半世紀経過して、その結果何も得られなかった。例えば誰かと喧嘩をしたり、本音で話したり(これもよくわからない)、相談したり、そういう経験しないまま、何も得られなかった。もう本当にすべて疲れてしまった。

 たくさん迷惑かけてしまった。人様の人生の邪魔をしただけだったなと思う。自分じゃなくても良い事、余計な事を色んな場面でしてきてしまっていたな。好きなこと沢山あっても、自分だけが幸せになることは許されない。関わり合いの生き物。

 

 

 フィナーレという歌がある。『いつかまた 今に戻れるなら 君に好きだと伝えるね』という歌詞。人は遠く過ぎた過去やもう手に入らない思い出など、望遠鏡を覗くように回顧する事がある。思い返す事も、思い返したい事も、何も残らなくなった時に、きっと肉体はこの世に用事が無くなった、ということになるのだろう。無宗派なので無間地獄の沙汰もなんとかなると思っている。もう疲れちゃったね。魂も何も、原子は全て拡散する方向にベクトルは向いている。

 色々なことがあったね。