雑記

白いワニに囲まれています。

夜間飛行

 まあ、人間の出来ることって実際にはちっぽけだったりする。

 

 東京、思っていたより近いような、やっぱり遠いような、奇妙な距離感だった。狂った世の中は時間と距離の感覚を壊してしまった。数年ぶりに行って、懐かしいような、または見たことがない新鮮さを持っているような、そんな気分になった。

 意外と長距離運転するのは好きなので平気で4時間くらい運転できてしまったりする。自分の車なら尚のこと。今回は緊張感あったけど……。無事にこなせてほっとしている。ハードルの高さと世界の異質さを再認識した。住むところではないだろうなきっと。

 

 得意な運転も永遠には続けられないし、楽器演奏も難しい曲は指が回らない、リズムも取れない。自分ができることなんて思っているよりずっと狭い範囲に収まってしまっている。世界に対しての働きかけもそう。手の届く範囲のことすらままならない、手が届いていないのかもしれない。勿論政治や思想についても左右できない。身近にいたつもりの人を支えることもできない。

 

自分のことを助けることができるのは自分だけなのかしら。助けて欲しいって思っているまま死んでしまうね。

 

 

フィナーレ

高井息吹さんの歌は、なんであんなに力強く響くんだろう。

 

 なにを書こうとしたのか忘れた。

 仕事はすごく忙しい。ネットワーク関係のエラーがあって、今まで進めていた仕事にも影響が出そう、ということらしい。伝聞口調なのは、自分は当時担当ではなかったから。でもそもそも仕事って誰がやっても同じように出来なければダメなのではないか、とずっと思っている。独自の何か、とか属人的な何か、とかこれは業務全体としてはかなりマイナスなんだろうな。かといって業務のフロー等を作成する余裕も実はあんまり無かったりする。忙しいとどんどんとその業務に詳しくなっていくが、自分ばっかり詳しくなってもしょうがないだろうな。

 この、「属人的な要素をなんとかしたい」「他の人が担当についてもスムーズに仕事できるようにしておきたい」っていうのはかなり前から思ってはいる事なんだけれど。実際世の中に自分にしかできない事、なんていうものはほとんど存在しないからなー、なんてずっと思いながら生きてる。一種の諦観の境地なのかもしれない。

 

 これは何も仕事に限った事ではなく、自分の携わるものすべてに対してこう思ってしまう。この考え方も社会に出てから身についた訳ではなくて、なんかずっとそう思ってる。幼少期の何かなのか、生まれ持った性質なのか、それとも見聞きした経験に起因するのか、わからないが。

 手の届かない範囲の事柄に心を痛めることは、当然にある。人の生活を豊かにしたり破壊したりするエネルギーの話。エントロピー増大の話を職場でしたら後輩に理系っぽい!と笑われてしまった。物事は絶えず乱雑な方向に進んでいく。混沌とした原子の集合体。今世界で起きている(と報道されている)色々な事も無秩序さ、乱雑さみたいな、そういう見え方をしてしまうな。それもネット上(この言い方はあまり好みじゃないけど)だと冷笑系って言って批判のネタにされたりしている気がするね。世の中にある怒りの矛先はすべて自分に向けられているように感じるし、憎悪や憎しみもそう。これも無秩序。

 だけど、それを自分一個人が秩序立てていくことは勿論不可能だと思う。手の長さも声の大きさも限りがあるし。

 自分が取り組んでいる物事、関わっている人、沢山大切なものはある。し、大事にしているものもあるつもりだった。実際のところ、色んな人と関わり、例えば演奏したり、仕事したり、綺麗なものをみたり聴いたり、時間や感覚の共有をしてきた。部活動やクラス、部署、業務班、友人、恋人など。

 しかしそこに自分だから必要とされている、みたいなものは無かったな。引継ぎの資料を作成すれば良い世界。価値判断の基準を外側に置いている。こう言う事だったのかーと今書いてみて思ってる。我ながら腑に落ちた。誰に対しても「そう」してきたツケが回ってきているんだろう。

 何かから必死に逃げるように迎合するように生きてきて、四半世紀経過して、その結果何も得られなかった。例えば誰かと喧嘩をしたり、本音で話したり(これもよくわからない)、相談したり、そういう経験しないまま、何も得られなかった。もう本当にすべて疲れてしまった。

 たくさん迷惑かけてしまった。人様の人生の邪魔をしただけだったなと思う。自分じゃなくても良い事、余計な事を色んな場面でしてきてしまっていたな。好きなこと沢山あっても、自分だけが幸せになることは許されない。関わり合いの生き物。

 

 

 フィナーレという歌がある。『いつかまた 今に戻れるなら 君に好きだと伝えるね』という歌詞。人は遠く過ぎた過去やもう手に入らない思い出など、望遠鏡を覗くように回顧する事がある。思い返す事も、思い返したい事も、何も残らなくなった時に、きっと肉体はこの世に用事が無くなった、ということになるのだろう。無宗派なので無間地獄の沙汰もなんとかなると思っている。もう疲れちゃったね。魂も何も、原子は全て拡散する方向にベクトルは向いている。

 色々なことがあったね。

 

割れてしまう。

 

初めて自分の車で出勤した。私はずっと電車通勤をしている。風が吹くと桶屋が儲かる……JRも止まる……。最近のJRは立ち往生しないためにあらかじめ電車を止めてしまう。それ自体は人命とか安全性確保の面から喜ばしいことなんだろうけど、贅沢な私たちはブーブーと不平を漏らす。今日の天気ならギリ動かせたんじゃないですかね〜、あ、でも風かなり強いしやっぱ厳しいか〜、みたいな話を3,4回した、今日。車で通うと流石に楽だなあって思う。運転するのは好きな部類の人間なので早起きしてバイパスで行った。普段走らせない時間帯に運転することになったから結構びびって早めに家を出たら七時半前にはオフィスに着いてしまった。意外と空いてるのね道路。延々とCarla Bleyを流しながらそこまで飛ばさずに走って小一時間、イヤホンで音楽聴くよりも疲れなくていいな、とか、電車ってやっぱ疲れる乗り物だな、とか考えてた。こないだ車乗ったのはいつだっけな、と考えてやめたりもした。

 

バイパスは、特にこの時期は、少しだけ窓を開けて走るのが楽しい(塩撒きの車がいなければ)。空気がしずかで透明で高い密度を持っている、ような気がする。エンジンが暖まったら暖房をちょっと強めにして窓を開けて、そんなに踏み込まずにぼーっと走る。3気筒のエンジンだから静粛性とか滑らかさとかは全く無いけど、それはそれで楽しい。夜はずっと遠くまで運転していけるような気がする。夜の帳が下りる、時計の針を隠してしまう…なんて。実際には数十分も走れば目的のところに着いてしまって終わり。それが文字通りにバイパスの役目だからね。

 

運転している間だけ平和、あとはなにもわからないね。ずっと遠くまで運転していきたい。静岡とか。割れたビンをたくさん見かけた一日だった。そのいずれかは見覚えのあるものだったのかもしれない。二度と役目を果たせない物、そして私は?どうなのか。

 

懐古

電車のはじっこの席が好き。

寝てしまうけれど。こないだは寝ていないのに乗り過ごした。

 

季節は秋を飛び越えて冬になってしまった。全てが平年並みのように進んでいく一年があってもいいんじゃないかな、と思う。今月の頭には真夏のような暑さが街を埋めていたなんて信じられない位。腕時計が欲しい。60年代のセイコーの時計とかなら手が届くかな。古いものにはどうしてこう、心惹かれるんだろうな。現代までその形を残している、古いものはいい、ある種の生存バイアス。90年代Barbourも手に入れてしまったし、一層古びた人間になってしまう。音響機器も古いものの方がもてはやされている印象があるな。デジタル機器はさておき、ギターやアンプ、マイクなんかはヴィンテージ市場がすごいことになっているし。良いものを作ろうという気概は、どうも昔の方が旺盛だったんじゃないかな、なんて思う。

 

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Leitz minolta CL / Leica Summitar 5cm f2 / Kodak ColorPlus 200 にて撮影。ヴィンテージ機材の一種。被写界深度が浅すぎて花が溶けてしまっている。

 

自分が生まれてからの時代はどうだろう。失われた何年、なんて呼ばれたりしているみたいだけど、それしか知らないなんて虚しい気分になったりもする。とても嫌な時代だ。語れるほど知っているわけではない。一種の諦めなのかな。

 

疲れてしまったな。助けて欲しいなあってずっと思い続けてる、疲れた。

 

焦点距離

 プアマンズライカ、誰が呼んだかは知らないけどひどい呼称だ。たしかに貧乏だけど。

 

 写真機2号機を買いました。Leitz minolta CLという今からおよそ50年近く前に作られたカメラ。露出計不動ということでジャンク価格で。海外ではLeica CLという名前で売られていた。LeicaのM5と同時期くらい?に発売されて、まあ廉価モデルとしてそこそこ売れたみたい。Leitz minoltaブランドは日本限定での販売だったらしく、海外ではプレミアのようになっているらしい、面白いね。

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Ricoh 500G 40mm F2.8 Kodak ColorPlus200にて撮影。モクローかわいい。

 

 これを選んだ理由の9割は見た目で、1割はMマウントというところ。ライカのレンズを使ってみたかった。LeicaのSummitarという5cm(昔は焦点距離をcm表記してたみたい)/F2のレンズも完全ジャンクで買ってみた。こちらは1949年式。カメラの方がかなり歳下。なんとロマンあふれる構成……。まあ沈胴は出来ないんだけれども。Leicaは家が買えるくらい高いとか聞いていたけれど、不人気なものに限って探せばわりとお買い得なものも多少あった。elmar90mmF3.5とか。それでも昔より値段は上昇しているらしい。そりゃ、需要に対して供給がゼロだから、仕方ない話だろう。

 まだ写真を撮りに行けていないんだけれども、実際にちゃんと撮影できるか不安。ダメだったら全てオーバーホールに出してしまおう。状態良いものを買った方がお得だったじゃん、となる未来も見える。

 カメラ本体も、レンズもそうだけど基本的な機構はほとんど狂ってないまま現代に存在し続けてるのがすごいな、と思う。もちろん大事に使用し続けてくださった過去の所有者の方の努力もあるんだけど、そもそもの造り、思想が違う気がする。人間が直せるように出来ているというか。何が正しいのかはわからないけど、iPhoneももっと長持ちすればいいのにな(もしくは長持ちさせられるように内部のパーツを交換可能にするか)。その方が持続可能性が高くなると思うのは、技術から遠く離れた人の戯言なのでしょうか。Ricohの廉価カメラがバンバン使えるのも凄いと思う、なんならそっちの方が凄い。

 

 写真機に写らないものの話をしがち。だけど実際には写真機にしか写せないものもある。あってほしいな。人間の感覚の拡張。持続性と共感性の拡張。だけど受け取る側が存在しないと無意味か。そうだね。音楽や写真、文章、発話、他者への働きかけによって人間は生きる事ができるし、社会もそうやって勝手に維持されてきたのだろう。ある種の永久機関のように転回し続ける社会。政治が維持してきたのではなくて、人と人との物理的、心理的、多次元的接触が社会を形成してきたんだろうな、とボンヤリと思う。うまくいかなかった人は皆死んでしまうね。

蝶の力学

 ひたすらオートメーションについて学ぶ研修を終えた。自分の仕事をどんどん削っていくようで少し奇妙、だけど面白い業務。このまますべて機械にやってもらえばいいんだよ……なんでも。

 

 この世は地獄だなんて物騒なことを呟いた。実際にはそんな事はない。なぜなら自分が発信するものはすべてフィクションであり実在の団体や事件とは関係がないものだから、なんて。世の中には色々な考え方の人がいて、あちこちで争いあっている。つい二項対立で見てしまいがちだけれど、実際には極と極の間には想像するよりもずっとなめらかに、ゆるやかにレベルの異なる個が分布していて。それぞれそのレベルに達するまでのバックボーンも様々、質量も様々。原子のようにぶつかり合いながら、エネルギーは拡散しエントロピーは増大する。地獄さながら。意志を持つだけましなのか。

 極には引力がある。団結、凝固。社会性なんていう聞こえのいい言葉ではない(そもそも社会という言葉の聞こえがいいかどうかはまた別の話か)。ただ同じような性質のものがどろっと連なっているだけ。極ではより深く。同じ穴の狢、傷の舐め合い。結局テーブルの端と端は永遠に終わらない争いを続けて、中庸を気取ったところで単に衝突を避けてきただけかもしれない。気を抜くと極に引き寄せられる。大切なのは身近な数個に対するリアクション。というか手の届く範囲の物事しか未来を変えられない。極めて難しいし単に無力であることを認識するだけに留まるかもしれない。無力。どこか他の所に作用する可能性すらある無力、蝶のように。

 崩壊し周囲に無闇に影響を撒き散らさないようにしないと。自然で美しいままで居たい。

 

 

かなり疲れてしまった。ごめん、と言い過ぎている。何の価値もない謝罪。

 

 何かを残すのはとても難しいこと。形のあるなしに関わらず。

 

 物事に終わりが見えてくると途端に興ざめというか、現実に引き戻される感覚というか、そういったものに襲われる。自分の五感に感知される前の情報、予測の立たない事象、それらは良い方向にも悪い方向にも生活に色をもたらす。

 働き出してからいくつか季節は巡って、社会は大きな変化の潮流にあって、自分を見つめ直すことも増えた。世の中の物事の大半は自分ではどうすることも出来ず、皆大きな流れの中に身を任せたり、時には抗ったり。結局のところ、ゴールはそれぞれ平等に設定されている。

 音楽について。10年くらい楽器を弾き続けている訳だけど一向に上手くならない。最初の3ヶ月くらいが一番上達していた気がする。一人では形にならないものが音楽だと思う。合唱・合奏する人、または聴衆がいてこそ成立する。ベースなんて楽器は尚更。パラダイムシフトの末に待ち受けているものは何か、知ることが出来ないまま終わってしまうだろう。

 世の中には手の届かないものが沢山ある。距離的に触れられないもの、XYZ軸だけじゃなくて四次元的に時間軸でも。同じ形状の雲を目にする事は無い。手に取ることも出来ない。自転と公転をひっくり返すような事は今の人類にはおよそ不可能なので、諦めるしかない。

 

 私が観測している世界は極めて多くの向きの力が働いていて、そのひとつひとつは、実は、ベクトルを変えることすら難しい。思惑は交差し、中心点がぶつかり合う。始点を定めること、終点を定めることだけが可能である。多くの矢印の向きと密度、それとほんのちょっとの時間軸のずれでいわゆる運命は転がっていくのだと思う。前髪の隙間から世界を覗くように、幾重にも重なる線と線から、その向こうの情景がちらっとでも見えてしまったら。きっと日々を歩む、時間の軸を進んでいく勇気が失われてしまうだろう。

 

 進むべき場所なんて実はひとつしか無かったりする。